categories

archives

9月 お腹とこころ

モクセイ パイナップルケーキ

      生きてゆける場所 モクセイ  紅茶とパイナップルケーキ

 

コロナ前のころのように、街もお店もひとがたくさん

マスクで口もとかくれていても、おしゃべりの花咲に

笑顔やリラックスを感じられる、まるでいつもの暮らしが

戻ってきたかのような、街とひとの様子を横目に

9月の毎日は、落ちまくる抜け毛の量が気になっていたら

ぎょっとはげができていたみたい

心身ともにヘビーメタルな重さのある日々でした。

 

セッションでお会いするひとから聞く話

伝わり感じるそのひとの傷に痛み

むけられている支配や暴力の尋常じゃない狂気めき

お話を聞きながら、情報を読みながら、

はてなが何個も浮かんで消えないとまどいを

そのひとは、毎日に現実に、体験している

そのことに、セッションのあとの帰り道は

なんだかもうろうと視界がぼやけ

しばらくぼうっと膜のようなのがとれるまでに時間がかかり

翌日にお会いするひと、話をきくと

そのひとも、尋常じゃない事態、

またぼうっと もうろうとして

 

そしていつからか、会うひと、みんな

涙を流される

そんなことは、こんな毎日、涙をみること

いままでになかったことで

いま、いったい何が起きているのかと

見えないところで行われている暴力

ひとが、ひとでなくなるという重み

 

政治では、悲しくもあたりまえに

ひとでないひとたちがこぞって重要なポジンションにつき

ひとではない発言、言葉以前にそのひとの顔もまた

どうしたって人間の顔にはみえない

どうみても妖怪かゾンビにしかみえないような

そういうリアルホラー、政界では前からも

 

今年に入って、特にコロナが広がってから

政治家みたい、見るからにではなくても

まるで、灰色の男が暗躍しているかのように

ひとのこころをなくしたひとが、市中にも

 

ぱっとはいつものそのひとのようで

ときと場所とひとにあわせ、阿修羅のごとく

くるくるいろんな顔を使い分ける

ある顔は、鬼をあらわに

怒り、支配、操作をぶつける

これは誰なのかというように

 

そうしていても、そうすることで

埋めようと、ごまかそうとしている

がらがらいがいがした胸の虚空は

埋まるどころか、どんどん広がるばかりなのに

 

ひとは自分が起点に決めていることを生きる

 

そのもとにある決めていること それが恐れからなら

頭では安心を求めていても、恐れが顕現化するし

不安がもとにあるなら現実は、

不安に基づいたものになる

 

豊かに幸せに、喜びから自分の人生を生きるより

自分の生を、不安や恐れに投資して

頭では望んでいない現実を創造しながら

思考と感情の不一致を生き続ける

そのちぐはぐなハードボイルドの方を選ぶ

その理由は、ひとつはらくだからというのがある

 

ひとは不安なとき外をみている

自分に向けられるものさし

他者から求められる期待

自分のエゴが求める他者や社会からの評価

視点の先は常に外側に

 

ひとからどうみられているか、他者の反応や

外側での現ればかりを注視して

自分自身(内側)をみないまま

努力の限りを尽くしても

期待したものと現実が

違うものであるときひとは

その理由もまた、外にみる

 

目の前の現実に

責任を持たずいられるらくさを得られるぶん

自分が生きたい現実を、努力なしには

自分で創造することはできない

 

魂の望みを生きるとき

することのすべては、無努力の状態

 

心から自分がしたいことをするとき

それは努力じゃなく、結果でもない

過程のなかに、充足があり、満足がある。

意図と結果の間に間がなくなり、

いまにすべての答えがある。

 

自分が真に生きたい現実を

自分の意思で創造するとき

すべての選択は、意識的なものになる

 

目の前にあるものは

毎瞬の選択と行動、自分の意図の現れであり

外には理由を置けなくなる   それは、しんどく

無意識ではその道簡単に消えてしまう  しんどさもある

 

 

「責任」を言葉にするとき、いつもとても難しく思う。

自分の人生に責任をもって生きるのと

自分のいまいる環境や状況、周囲にいるひととの関わり

そこでなにか大きな困難があったとき

全ては自分の結果であり自分の責任だからと

自分を責めたり、罰したり、あきらめたり

困難を、一手にひとりで背負ったりするのは

自分を生きるの責任とは違う、それは責任じゃない

それは状況、環境、事態、現実に起こっていることで

そこに困難あれば、助けあっての社会。

またそして、責任と自己責任は、まったく違う

自己責任という言葉で、他者と自分を切り離し

他者の困難をみてみないふりをする  それは

自己責任という言葉を蓑にした、ただの無関心

愛の反対は無関心。 無関心は灰色への加担。

 

 

意識的であり続けること

違うことをしないこと

自分の一番のほんとうを見極めて

慎重に真剣に、一歩一歩をゆくこと

それは慣れていなければしんどいし

その一歩一歩に集中して道をゆくとき

過去からの予測はもちこめない

 

未来がどうなるのかわらかない

自分の内側、いちばんのほんとうを見続けて

今のみにいて 直感から行動し生きることのしんどさと

過去からの予測をもとに、戦略立てて、努力しながら

外を見て生きる  らくさとしんどさを比べたとき

どちらのいきかたが らくかしんどいか

それを決めるのは、過去ではない、いま

常にいま、自分が決めていることを

決めたいことを、生きている。

 

どんな状況、場所にいても、

それがどれだけ過酷な環境に身を置いていても

自分がいまこの瞬間になにを選び、どう反応するか

その意識、精神における自由は、生きるすべてのひとにある

 

常に意識は、どんなきびいしい制限、状況下にいても

映画『ライフイズビューティフル』のお父さんみたい

(環境の外にある意識のちからをそのまま目にする作品です)

意識はいっさいの制限をうけず、どこまでも自由に

自分が決めたことを生きるちからをもっているのに

 

しあわせに生きることを自分に許さず

外をみて、戦略と努力でもって、自分が傷つかないように生きる

このよくわからない、しあわせへの抵抗にも思う

しんどいほうしんどいほうを選び続ける意識の動きは

それはいまに始まったことではないのは

2008年以降の集合意識の動きと選択、決定を見ていれば

そうでしかないというのはあるけれど

(集合意識は苦難を通して自己の葛藤を解放することを選んだ)

 

集合意識がそのとき何を決めたとしても

自分はどう生きたいかを決める自由は

絶対的に永遠に個々に保証されているもので

どんな権力者であっても、ちからをもってしても

その自由だけは、本来いっさい、干渉できなく

 

毎瞬、なにを選び決めるかは

その権利であり意識の力を明け渡さないかぎり

起点(どう生きたいか)に何をセットするかは

どうしたって、自分が選び、決めている

 

ただ、その権利、ちからを何者かに明け渡してしまえば

自分は現れ(結果)における反応しか自由はなくなり

その起点には、勝手に何かをセットされてしまうけど

それすらそれを、自分が決めている。

 

幸せになることを選びきれず

恐れや不安から生きるとき

いまはその恐れや不安がまるままに現実化してしまうときにきて

そこで生じる、怒りにいらだちフラストレーション

その憤りを他者にぶつけることでバランスをとろうとする衝動に

ストッパーがきかなくなってしまった、ここしばらくの全体の

江戸末期のええじゃないか運動のようなたがのはずれも合間って

 

その衝動の矛先を向けられるひとは

これまで以上に深いダメージ受けるかもしれなく

いま、若いひと、特に女性の自死が、今年8月の統計では

急激に増えているという、恐ろしく悲しい報道にしても

いま、おかしくなるひとと平行し、傷つくひとも、増えている

 

なんなんだろうと、ぼうぜんとなる

社会なのか、なんなのか

個々人の意識、精神の状態

それがいったいなにからか、どこからか

行き着くところは、わたしは本気で、お腹に思う。

 

いまこんなにあちこちなにかしら暴力的に

それでもそれをそんなにおかしく思わないほど

どこかが巨大に麻痺してしまっているのは

きっとお腹からきている。

お腹であり、お腹をめぐる、腸が大きい。

 

思えば小沢君も『うさぎ!』でお腹のことを書いていた。
(探してみたら、書き起こしのブログ見つけました。

お腹にある正直な痛み、「自己責任」の話も。)

 

ひとがひとのこころ、良心良識をもたなくなった

その理由には、農薬、添加物、化学物質、遺伝子操作

電磁波に、そして今は消毒薬に除菌剤がみだれとぶ、

菌にとってはものすごすぎる環境下、体の菌は減るばかり

 

それにより、お腹の方位磁石が狂い、どこへゆけばの混乱から

舵の手放しと船の乗っ取りが起こってしまっているのだと

INDEEPさんの記事を見ても、やはりと思った。

記事では船の乗っ取りのことを「レギオン」と書かれてた。

 

そう、足立育朗さんの『波動の法則』宇宙語びっしりの本も

書かれていること、ひとことにするなら「菌」だった。

(見つけた記事 足立育朗先生講演会 in 日比谷公会堂

 

腸や菌といえば、発酵食に食物繊維、サプリなどがうかぶけど

お腹の豊かさ、なにをとるかよりも大事なのは

「なにをとらないか」

それは思っている以上にすごく大事で

今はかなりの危機に思う。とくに日本、きっとどこの国よりも。

 

数日前ツイッターで見たのは東京メトロの除菌コーティング

これから大々的に行われるワクチン接種も、ほんとうに危機

じぶんがじぶんでなくなってしまう。

 

いまこの社会、しょうみ無防備、無自覚には生きられない

ひとつひとつのよしとされるものへの見極めと選択が

もろもろ過酷な状況下、自分を、菌を、守ることに。

 

いま、不安や恐れ、思考や感情の荒ぶりにのみこまれ

目の前の現実を否認して、自己制御できないで

自分の内なる葛藤を他者にぶつけることでしか

自分を保てなくなっているひといれば、とにかくは

お腹を大事にすることを、考えてみられるのいいのではと

真面目に、本気で真剣に思う。

 

自分の菌の状態やバランスは、健康面だけじゃなく

脳の働きや、精神に感情、自分のすべてと連動している

 

かなり用心深いくらい

体にとって不自然なもの、菌を減らすもの

なるべくさけることを意識したら

混乱する腸内フローラ落ち着いて

嵐をぬけた船みたい、青空のもと、フローラ豊かに

 

がちがちに凝り固まった狭い視点

自分が見たいように見る分厚いフィルター

思考と視点が固定化された状態に

お腹の中からすこしすきま、ゆるみがうまれ

違う視点でいまをみる、違う認識、アイデアが流れ込む

そんな余裕というか余地、できるかもしれない。

 

ツイッターにあった記事

DV加害者だった52歳夫を変えた強烈な「自覚」

 

記事中の「しつけ」という言葉には戦慄するも

DV以外でも、自分ひとりでは向き合いきれない問題

支援センターの存在は、心強いサポートに

ただ本人に支援を受けることへの抵抗があれば

そこへ通い向き合い続けること、なかなかに難しく

それでゆくとお腹のケアは、だいぶ気軽に試みやすい

 

なにをとらないかに注意しながら

とりいれることでしか得られない

こころとからだの滋養を通して

むりなく自然に、でもダイレクトに

自分の内から変化を起こす可能性を思ったとき

ごっと激しく、まぶしく浮かんだのは

京都のイスキア  キュロット

 

キュロットのご飯を食べたなら

(日替わり定食、そう、ボルシチもおいしかった!)

腸ダイレクトに、こころと意識と視点の変革

お腹の中から起こるのではないかと

ぎらぎらとそう思う、キュロットのごはん

 

ふだんは家でしか食べなくて、外で食事することないのに

お店の日記を読んだとき、静かな言葉の空気にひかれて

ともだちを誘い、吸い込まれるようにして入ったキュロット

そのときにいただいた晩ごはんは

奇跡に思う、感動と、やさしさと、安心と

なつかしさと、深い味の染み渡りに、元気が満ちて

 

荒ぶりの状態に陥っているひと、ぜひおすすめも

弱っているひと、傷を受けているひと

もうろうとしているひと、元気なひとも

ごはんの一口、一口に、いま生きていることを自覚する

生きている、大きな、大切なよろこびを知る

またお店の空間も、らんたんの灯りのような

ぼうっとしてやわらかな、温みがあって

じぶんの意識とこころを広げる、余地があって

 

京都にゆくひとあれば、それならばぜひと

今までも、会うひと口ではおすすめしていたのだけど

ゆかれたときはきっと驚かれると思う、看板のないお店

こっそり、こちら日記でも、ご紹介をさせていただきたく

大阪も、なにか吸い込まれるようなセンサーが働いて

お腹とこころ、変革をもたらすごはんが食べられるお店に

出会ったときは、日記かツイッターかまたなにかで

お知らせをさせてください。

 

お腹からの変革、読んだ本で浮かぶのは

佐藤初女さん(記事)のおむすび、ちこさんの神様ごはん

稲垣えみ子さんの本は歓喜の叫びがページごとに書かれてて

坂口恭平さんは、鬱のとき、料理をと勧められている

つばたご夫妻の本『ふたりからひとり』映画『人生フルーツ』も

ふたりのあいだには、つくることとたべることがあった。

こころある、想いのある、真剣な、暮らし、食事

 

そうして、たのしかったり

あたりまえに食べている日々のごはんが

自分であり、自分をつくる、菌をつくる

 

どこかへ食べにゆかなくても

自分でつくるごはん、その食材となるもの

産地や生産者さん、つくりかた、こだわり

安心の食材を取り扱われるお店

地産地消や、旬のものを意識したり

そうして、選び、つくること、食べることで

頭と感情の混乱からじぶんを今へひきもどし

お腹とこころをアンカーさせる

 

父とサンさん、離別のあと、起きているあいだは

涙が出ていたけれど、唯一悲しみから離れられる

ニュートラルになるときが、料理だった。

料理で自分を保ち、生き続けることができた。

 

なにを食べるか、お店やメニューに食材

選ぶときのポイントは、ほかの全ての選択にもゆえる

 

そこに調和を感じるか、違和感を感じるか

 

それは食品表示だけではわからなく

食材なら手にふれたり、匂ったりして

五感をふくめた六感を働かせ

お腹とこころと感覚が、ハーモニーをかんじるもの

毎食じゃなくても意識してみることで

センサーはより細やかに、振れ始める

 

そして、全体にとっても大事に思う、スペンドシフト

プロサバンナに、畜産、パーム油生産等による、自然環境の破壊

フードロス、遺伝子組み換え食品、種子法廃止に、種苗法の審議

農薬散布に添加物、輸送に燃料CO2問題、食料自給率の低下...

書ききれない問題が山積しながら、よりひどい方へと向かう

この濁流のような流れを前にして、自分に無力を感じても

 

個人でみたら、大きな川に小石を投げ入れるようなものでも

買うもの、食べるもの、その日々の選択で

小石は少しづつも積もり、またそれぞれの小石がかたまれば

流れに抵抗がうまれ、それはいつか、その流れを止めるほどの

巨大な表明となって、大きな流れを、変えられるかもしれない

 

そう、思うも

毎日なにを見ていても、なにをしていても

つねにどこか、もどかしい気持ちになる

日記、ごはんのことを書いているけれど

この間にも官邸前では、

著述家の菅野完さんが

日本学術会議への政治介入に抗議して

台風が迫るどしゃぶりの中も座り込み

食べないことで、法を無視する権力者と

そのことに危機意識をもたない意識

からだをはって、命をかけて、戦っている。

「なにをとりいれないか」

その究極を通して、訴えをなされてる。

菅野完さんハンストの趣旨」

 

ほんとうに、あたまがさがるおもい

こうして部屋で問題なくいる自分が

ほんとうに、もどかしい

 

もどかしくも、いまできること

自分の目の前のいまを

大切に、意識的に、尽くし、生きるしかで

このさきまたお店できることあれば

おにぎりとコーヒーの喫茶開けるよう

いまはまったく、資金もあてもないけれど

人生何が起こるかはわからないから

違うことをしないこと、誘われないこと

そうしてなつかしすぎる未来迎えられるよう

いまの一歩を、歩んでゆきたく

 

京都のキュロットみたい

お腹から 生きることを助けてくれるお店は

現代における神社みたい、全国各地に存在していて

このコロナ禍、いまそんなこころあるお店ほど

大変になられている

 

このきびしい難局、お店への応援と

じぶんの元気、健やかさのためにも

お店が体なら、血であるお金も、巡るように

外でごはん、お店と自分に、投資して

住まう所の神社、これ以上失ってしまわないように

このときを、生きてゆける場所を、守れるように

 

毎日の食事、いただく命とこころ

あじわい、たのしみ、感謝をかみしめ

生きていることのよろこびを

お腹と胸いっぱいに、腸元気に

今日のかけがえのないときを

 

そして、みんなが

安全な、滋養ある食事を食べられる

みんなが、しあわせに、安心に生きられる

毎日を、社会を、世界を

そのための、サポートを、政策を、行政を

つながりあい巡っていることへの自覚を

搾取でなく分配を、公共の重要性を

良心、良識を、個々、そして全体が、

生きる、うまれる、命に、責任をもって。

 

(よだん)

矢野顕子さんの『ごはんができたよ』を聴くと

なんでかいつも安倍さんがうかぶ。

みんな、どんなひとも、

おいしいごはん、笑顔で、たのしくがいい。

お腹があたたまれば、笑顔なら、

世界はやさしく、大切に。

 

義なるものの上にも

不義なる者の上にも

静かに夜は来る

みんなの上に来る

悪い人の上にも

静かに夜は来る

みんなの上に来る

つらいことばかりあるなら

帰って 帰っておいで

泣きたいことばかりなら

帰って 帰っておいで

 

『ごはんができたよ』矢野顕子

https://youtu.be/62GqGZuaV7o

 

 

 

 

スピリチュアルリーディングにじのわ アカシックレコード

 スピリチュアルリーディング にじのわ